東京ステーション歯科クリニック
院長 小川 洋一
新型コロナウィルスの感染も収束どころか、日本中、世界中でますます拡大の様相を呈しております。歯科医師の先生方や各歯科医院様でも、日々の対応にご苦労されていることと思います。
このような状況下ではありますが、歯科医院経営研究会の理事として、一人の歯科医師として、東京ステーション歯科クリニックの院長として、少しでも先生方のご参考になればという思いから自分の経験をお話しさせていただこうと思います。
ご年齢、ご経験も様々な先生方にお読みいただくために
Ⅰ 東京ステーション歯科クリニックの誕生まで
~新規開業と移転開業まで~
Ⅱ 東京ステーション歯科クリニックの誕生から現在まで
~移転開業から現在まで・今後目指すもの~
に分けて、経験上「私はこんな事を考えて進めてきたな」ということをお話しさせていただきます。
Ⅰ「東京ステーション歯科クリニック誕生秘話」
−卒後10年未満の先生が、これから楽しい歯科医師人生を過ごすためのヒント−
日本の中心部に位置する東京駅八重洲口の駅前に、東京ステーション歯科クリニックはあります。特記すべくは、立地による利便性だけではなく、東京駅徒歩圏内で最大級の延べ床面積を誇り、診療チェアー8台、手術見学室、研修室を併せ持つ、他には類を見ない歯科医院であることです。
当院は最初から本形態でスタートした訳ではなく、長い歳月を掛け紆余曲折を経た後に現在の形態へと変化してきました。東京駅前最大級の歯科医院がとの様にして誕生したか興味のある先生方は多いのではないでしょうか。
特に卒業したばかりの先生や、これから開業を目指す先生には、誕生までの歴史をお話しすることは、参考になることも多いと思いますので、文章の最後までお付き合いいただけたら嬉しいです。
昨今の社会情勢と歯科界の状況に不安を抱えた先生は多いのではないでしょうか?開業セミナーや経営セミナーは連日満席と聞いています、それだけ歯科医師の置かれている環境が不安だらけなのかもしれません。
もし歯科医院を開業したら、開業したばかりのこの歯科医院はこの先どうなるの?など先生方は日々不安と隣り合わせで診療している事でしょう。自分自身も過去に数々の悩みや不安を抱え、その一つ一つを解決しながら過ごし、現在も不安を持って診療をしています。
ここで漠然と不安と書きましたが、歯科医師の抱える不安とは2つに分類されるのではないでしょうか。
1つは歯科治療技術の問題、目の前の症例をどの様にアプローチして行けばよいのかに代表されるような、診断や技量の問題です。2つめは金銭的な問題です。 この部分はそれぞれの先生方の置かれている環境によって若干の違いがあれど、ほとんど全ての先生方が持つ悩みであると言ってもよいのではないでしょうか。
特に比較的年齢の若い先生方は、お金の問題を解決するための経験値も乏しく、解決のためのアドバイスを受ける環境も整っていないことあり、心の中の負の気持ちが大きく占めてしまいます。振り返れば、筆者自身も開業したての頃は不安に押しつぶされそうな気持ちを奮い立たせながら毎日を過ごしたものでした。
ここで筆者自身を振り返ってみたいと思います。筆者は医療関係とは全く無関係な家庭に育ち、明海大学を卒業後、同大学の同窓である著名な先生に師事を仰ぎました。卒後の進路決定に際しては取り立てて相談する相手もいなければ、アドバイスをもらえる環境にもなく、あれ頃と悩むこともなく、比較的あっさりと進路を決定したと記憶しています。しかし、今振り返ればその決定が自分自身の将来を大きく左右する、人生の大きな分かれ道であったと今でも言い切れます。
人生のターニングポイント⑴
「卒業したての若い時期に過ごす環境が人生を左右する」
勤務した歯科医院は新宿の高層ビルの一角にある、明海大学の大先輩にあたる歯科界ではとても著名な先生の診療室です。
いわゆる就職ではなく弟子入りをしました。
その診療室はホテルのような内装で、大学では見たことのないような高度な歯科治療を提供する歯科医院でした。卒業したての歯科医師にとってカルチャーショックの連続で、毎日怒られる事の連続でしたが、今にして思えば恵まれた環境で、そこでの経験で今の自分があると確信しています。
最初の一年間は院長先生のアシスタント業務をし、自分で患者を治療することはありませんでした。厳しい環境下でほとんど休みもなく丁稚の様に働きました。
昨今の様にSNSで同級生が何をしているとか、自分の置かれている環境が他とは違うとかを認識する機会もありませんでしたので、同級生との情報交換もなく、逆に情報の少なさから必要のない焦りや不安にさいなまれることもなく、そんなものだと思いながら過ごしていました。
当時は「歯科大学も6年間なので6年間勤務するか」と漠然と考えていましたが、色々なことを見聞きするうちに楽しくなり結局8年間もお世話になることとなりました。振り返れば、この8年間という歳月が人生を左右するポイントとなったのです。
1990年当時は1つに歯科医院に長く勤務することはまれで、3年程度で退職し、開業することが一般的な時代でした。自分より前に勤務されていた先生方も皆さん3年で退職、独立をして行きました。
そんな時代に8年間はまれで、信用していただけたのでしょう、色々な仕事を任され、それがまた楽しく、楽しいから苦にならず、失敗もありましたが多くの仕事で良好な結果を出すことが出来ました。勤務時代はほとんど休みもなく、時間を忘れるくらい一生懸命仕事をすることで、他院の先生方を始め、歯科関連業社の方や歯科雑誌社の方など歯科界の主要な方々と知り合うことが出来ただけでなく、皆さんに信用していただけたのでしょう、色々なお話しをする機会に恵まれ、有益で役に立つ本物の情報に日々接することが出来る環境が構築されていったのです。
今日のようにインターネットで答えを探すのではなく、知識を持って経験を積んだ業界の先駆者から生の知識を授けてもらったのです。この時期の経験が後の歯科医師としての人生設計に大きく役に立ったと思っています。最高の環境にいられたことに今でも感謝しています。
人生のターニングポイント⑵
「一生懸命仕事をすることで本物の人と出会うことが出来る、その出会いは人生を左右する」
卒業から開業するまでの間で悩んだことは、前述の2つの悩みの内の1つだけ、どうすればもっと高い技術を身につけることが出来るかとか、といった技量の悩みだけでした。
しいて言えば休みが少ないとかとの愚痴は言っていたかもしれません。フェイスブックもインスタグラムもない時代、同年代がどんな車に乗っているとか、どんなレストランに行ったとかの情報が耳に届かなければ、他人と比べる事もなく、今考えればお金は持っていなかったのだと思いますが悩みの少ない時期を過ごしました。
8年間という修行もつみ、ある程度の歯科治療のテクニックも習得し、今振り返れば思い上がりにも思える自信も身につけ、いよいよ開業を決心しました。ここで、お金にまつわる現実にぶつかるのでした。
当時勤めていた歯科医院の様な「有名なビルで、格好良く開業したい。」「努力した自分はきっとそんな自分の医院を持つことが出来るはずだ。」と思い込んでいた結果、都内一等地、駅ビル等多くの情報が集まりました。
とある有名駅に隣接する高層ビルのテナントに申し込むこととなりました。申し込みには5件の歯科医院が名乗りを上げており、書類選考通過、面接が行われました。入居したのは多数の歯科医院を経営する大規模医療法人、あとで聞いた話によれば、既に入居は決定していて、面接は形式上行われただけだったようです。
バブル崩壊後の1997年、拓殖銀行の経営破綻、山一証券の廃業といった金融危機がニュースで報じられた当時、開業で舞い上がっていた自分がいったん落ち着くと、イメージを持つことの出来ない単位のお金をマネージメントすることの恐怖を経験することとなったのです。はじめての開業とは今までの人生の中で接したことのない単位のお金と向き合うことなのです。
出来ることと出来ないことを精査し、最終的に選択した開業場所は、もんじゃ焼きで有名な月島という東京の下町でした。ビルのオーナーが医師で内科を開業、親族が眼科を開業するビルの一角に床面積15坪でこじんまりと小川歯科医院を開業することとしました。
卒業から開業までを素晴らしい環境と恵まれた出会いで過ごすことで、すっかり歯科治療の虜になり、歯科治療へのこだわりが強くなった自分は、今考えればまだまだ稚拙な技術であったにも関わらず、「妥協した歯科治療はしたくない」と考えていました。そこで、派手に歯科医院を経営することで沢山のお金が必要となり、そのため必要なお金に歯科治療の質を合わせるのではなく、自分のやりたい歯科治療を行えるように、少ないお金の量で経営する方がストレスがないと考えたのです。
そんな小規模な医院ですら、人生ではじめて経験する事ばかりで、多くの失敗と挫折を繰り返しながら色々なことが上手く行かない日々が続きました。経営面やマネージメントで苦労するも、歯科治療で結果を出し、その結果を患者さんが喜んでくれることにやりがいと楽しさを感じるようになりました。結果自費率80%台になり、「選択した道が正しかった」と心底実感するまでには10年の歳月が掛かったように思えます。
人生のターニングポイント⑶
「経営に採算が合うように歯科治療をする、やりたい歯科治療に採算を合わせる様に経営をする。筆者は後者を選んだ」
自分が納得する歯科治療を提供する、そのことを患者さんが喜び感謝してくれる。
治療結果を学会発表する、論文に書いて発表する。
自分で言うのも変ですが、ピュアだったんです。 そんなある日、ある歯科業者が診療室を訪ねてきます。
何のために訪ねてきたかはもう忘れましたが、担当者の言った言葉は忘れません「先生の症例は凄いけど、診療室は小っちゃいんですね…」何かが音を立てて壊れた気がしました。
その頃からです、東京の一等地で大きな診療室を持ちたいと思う気持ちが明確に強くなってきました。
2008年のリーマンショック後、東京の一等地のオフィス空室率は上昇、そして2009年東京駅の駅前のビルの一室に入居しないかとの情報が入りました。今振り返れば東京の下町でこじんまりと開業している個人立の歯科医院レベルが入れるような物件ではありませんでした、入居テナントは全て上場企業でした。
当時賃貸契約に名乗りを上げたのは、大手医療法人。 自分は個人、1997年の再来です、経済的信用度は法人の方が遥かに上でしょう。しかし当時のオーナー(銀行)の下した結果は、自分の方がビルにふさわしいとのことで自分が選ばれました。後から担当者が教えてくれました、決定要因は歯科界での学術活動が認められ歯科医院としてのブランドイメージがビルの格にふさわしいと評価されたとのことでした。
後から知ったのですが、当院の入ったビルこそ最初の開業話で舞い上がっていた自分をクールダウンさるきっかけにもなった、山一証券が一時本社として使っていたビルだと分かりなんだか思い巡らすものがありました。
人生のターニングポイント⑷
「専門職として大切にしなければならないを間違えてはいけない。見る人が見れば判ってしまう。」
2010年の春、東京駅前に移転し医院名を「東京ステーション歯科クリニック」と変更、過去の経験を踏まえてそれからは、何を大切にしなければならないか、大切にしなければならないものを見失わないことが不安に思う気持ちを解決し、自分自身の方向性を正しい方向に導いてくれると信じ10年近くやってきたある日、ビルオーナーから電話が入りました。
「先生の隣のテナント(誰もが知ってる大企業)が退去するので借りませんか?」考える間もなく「お願いします」と答えました。信用されている実感が沸いてきました。歯科医師になって30年あまり、こんな経緯で東京駅前最大級の歯科医院が誕生したのであります。
さて次回は、「東京ステーション歯科クリニック」の移転開業後、どのように当院を運営、経営してきたか。そして今、拡張した「東京ステーション歯科クリニック」を今後どのように展開して行こうと考えているのかについて、少しお話しさせていただく予定です。
▼東京ステーション歯科クリニックホームページ
https://dentist.dentalink.or.jp/