東京ステーション歯科クリニック
院長 小川 洋一
前回の東京ステーション歯科クリニック物語-01に続きまして、自分の経験をお話させていただこうと思います。
Ⅰ 東京ステーション歯科クリニックの誕生まで
~新規開業と移転開業まで~
Ⅱ 東京ステーション歯科クリニックの誕生から現在まで
~移転開業から現在まで・今後目指すもの~
Ⅱ 「東京ステーション歯科クリニックの誕生から現在まで」
2022年1月、まだコロナの騒動の報道が行き交うある日、賃貸物件の情報が入りました。東京駅中央口から続く八重洲地下街の出口すぐのビルに入っていた居酒屋が撤退し、現在空きテナントとなっているとのこと、一度内見をしてみないかとの連絡でした。
自身の医院を月島の地で開業し、東京駅八重洲口すぐの場所に移転したのが2010年、2020年には診療室を増床するまでの経緯は、東京ステーション歯科クリニック物語-01で紹介しています。
人生最後の事業と思い東京駅前にチェアー8台の大型診療室をと夢を膨らませていた矢先、世界を震撼させたコロナ騒動はオフィス街をゴーストタウンに変えてしまいました。当時の政策は出勤制限、自宅待機、深夜でも人が行き交う八重洲の駅前から人影が消えてしまったのです。
テレビ報道で歯科医院の危険性がさしたる根拠もなく取りざたされると、今度はスタッフの退職が相次ぎました。歯科医院拡張から僅か数ヶ月で希望から絶望へと急降下して行きました。ステイホームのムードのなか、週3日の時間短縮の診療で誰もが見えない出口を求め、残ってくれたスタッフと手探り状態で診療を続けたのでした。
ゴーストタウンと化したオフィス街ですが、幸いなことに東京ステーション歯科クリニックから患者さんが絶えることはありませんでした。さすがに、近隣のオフィス勤めの患者さんの通院はほぼなくなりましたが、一定以上の大がかりな治療を手がけている患者さん方は、コロナ前から電車に乗らず車で通院されている方々も多く、また診療室が広い空間を貸し切ったような内装設計にしてあったことも相まって、通院に不安を感じていなかったようです。こうして、診療の日数は減っても診療室にいる時間だけは、コロナ以前の日々と変わらない時間をスタッフと共に過ごしながら、情勢を見守る日々が続きました。
2年の月日は歯科医院以上に近隣の飲食店を直に襲いました。多くの人で賑わった八重洲の街並みをシャッター通りに変えてしまったのです。そんな八重洲の街の一角に診療室の移転話が降って沸いたのです。
内見に行ったその場所は何と広さ110坪、居酒屋が撤退した場所でした。歯科医院に適した場所を探すと、なかなか理想的な広さの物件に巡り会うことが難しい現実に遭遇します。希望する広さに合わなかったり、天井が低くて床上げが困難であったり、診療動線が上手く取れなかったり等、一長一短でなかなか理想的な物件に巡り会うには「運」もあります。
還暦を目前にして110坪の歯科医院で新たにスタートをさせる、ちょっと夢物語的な話しでしょう。しかし、その話しを聞いた時に心が動かされたのでした、「運」だけでなく「夢」を感じたのです。それは自分が歯科医師になった時からの尊敬する多くの先生方との素晴らしい出会いに関係しています。
歯科医師として駆け出しの20代の頃、勤務先の河津歯科医院の河津院長のおかげで著名な先生方と出会うことが出来ました。出会う先生方は学会発表はもちろんのこと、それぞれの先生方がご自身の得意分野で臨床研修会の講師を務める先生方で、当時の私にはいわゆる天上人の先生方でした。20代の歯科医師では通常話すことすらもままならない先生方にお声を掛けていただき、時には研修会のお手伝いをさせていただいたりと、とても充実した20代を過ごせたのです。
その当時は現在のようにインターネットで情報を取得出来る様なこともなく、休日に研修会に出向くことで自身の技術向上に努力をした時代でした。
そんな時代に著名な先生方の研修の現場に常に触れることができたことは、たとえそれが参加の先生方へお弁当を配る係や後片付けや掃除の担当であったとしても、駆け出しの歯科医師のその後の人生に多大な影響を与えたのでした。
著名な先生方が見せる素晴らしい治療結果のスライドは、 高度な歯科臨床の習得を目指す若い歯科医師の感性を刺激し感動を与えました。見るもの聞くもの全てが歯科医師の魂を奮い立たせるものでした。こうした異次元のスケールを持った優れた先生方に接する機会に恵まれたことが、今日の自分自身の歯科医師としての成長曲線に大きく影響を与えたのです。
当時の著名な先生方は、定期的に講習会を開催しており、常に後進の先生方の目標の歯科医師像を見せてくれていました。そして、なかにはご自身の診療室の隣に研修室の設備が備わった先生もいらっしゃいました。そんな姿を見続けながら、30年以上の月日が流れ、歯科臨床をまじめに積み重ねることで、自分も学会発表や臨床研修を任せて頂くようになったある日、前述しました物件の情報に巡りあったのです。
東京駅の目の前に自分の診療室を持つだけでなく、110坪の広さは研修室を併設するに十分な面積を有していると直感的に思え、20代の頃のあの時の思いに似た熱いものが沸き上がってきました。歯科界を取り巻く社会情勢の変化は、自分が歯科医師になった時から瞬くスピードで変化して来たことはよく解っていました、色々な意味で厳しい時代であることも。特に10年前に八重洲に移転して来てからも紆余曲折があって現在に至っています。
また長く八重洲に居れば周辺の不動産事情にもある程度詳しくなります。若い頃夢見てあこがれた「なりたい自分」に近づけるチャンスが30年の月日の後に訪れました、今を逃したら残りの人生で2度目のチャンスは訪れないでしょう…「2年前自分を苦しめたコロナは、今自分にチャンスを与えようとしているのかもしれない…」勝手に自分に都合のよい解釈をして、移転を決定し賃貸契約を結びました。
設計は月島の診療室から八重洲の診療室に移転をする際に設計をして頂いた時と同じ設計士の先生に依頼しました。チェアーの台数は今までと同じ8台、しかしその図面には30人が収容出来る研修室がしっかりと明記されています。研修室の正面には幅4mのスライドスクリーン、そのスクリーンを巻き上げるとその先には手術室を見学出来るレイアウトです。
この配置は、海外に行って研修を受けた際の講師の先生の研修室を踏襲しました。今まで診療室にはスタッフルームはあっても院長室はありませんでしたが、今回は初めて院長室のスペースを確保することも出来ました。「きちんと調査したわけではありませんが、23区内で110坪は最大級と言ってもよいのでは」と歯科メーカーの担当者からも言われる程の診療室となりました。
歯科医師となり早いもので30年以上が過ぎました、その間に色々の経験を積んできましたが、最も影響が大きかった出来事は最初の5年以内に訪れました。その時に歯科医師としての基本の部分が形成されるとても大切な時期であることは間違いありません。
「この時期の経験と出会いが歯科医師としての後の人生を左右する」と、今の自分を振り返って確信しています。一生懸命に20代を過ごした人だけに訪れる30歳を迎えることが出来て、その後の10年間を頑張って、初めて人と違う40歳代を送ることが出来るのかもしれません。それをベースにまじめにやり続けることで、50歳代になりやっと30年前に見た大きな夢でも現実のものになるのだと、還暦間近になって思っています。
もしこの文章を若い先生や、開業間近の先生方が読んでいらしたら伝えたいと思います。全てのはじまりは、歯科医師人生の感性が豊かな頃に接した良質の体験や、賢者との出会です、そこで感動したことや、あこがれたこと…その経験が何十年もの間の歯科医師人生に影響を与え、やがて軌道修正が出来ないくらいの大きな人生の意志決定になってしまう様な気がします。ぜひ質の高い経験を沢山積める環境を求めてください。
しかしその環境に居続けることは少しだけ大変だと感じるかもしれませんが…
そして今、解ったことがあります、大きな目標や夢は短期間で叶うものではないことが。しかし、叶うまで行動し続けなければならないことだとも解りました。「なりたい自分」を探すこと、そして「なりたい自分」になるためには何をしなければならないかと、何を我慢しなければならないかも同時に考える事が大切です。そして焦らずに行動し続けることです。それは自分自身が結果を実感出来る時までです…
【公式】 東京ステーション歯科クリニック
https://tsd.clinic/